石原都知事、原発住民投票条例「作れるわけがないし作るつもりない」
産経新聞 2012年2月10日(金)19時39分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120210-00000592-san-soci
市民団体「みんなで決めよう『原発』国民投票」による原発稼働の是非を問う住民投票条例制定を求める署名が東京都で法定必要数を上回る見通しとなったことに関して、石原慎太郎都知事は10日の定例会見で「代案も出さずにセンチメント(感情)で言っている」と懸念を示し「手続きを出したらいいが、条例を作れるわけがないし、作るつもりもない」と否定的な見解を示した。
今後は選管審査で必要数を上回れば、市民団体が条例案を作成し、知事に請求。知事は賛否などの意見書を添えて都議会に付議する。
石原氏は「原爆のトラウマがあるから、みな一種の恐怖感で言っている。人間は技術を開発し、失敗や挫折、事故もあったが、克服することで文明が進歩してきた」との見方を述べた。
また、東電以外の電力事業者からの購入を求める声が増えていることに関し、「東電や関電など大手以外のシェアは3%程度しかなく、それに集中しても、東京の電力がまかなえるわけがない」とも述べた。
(※Webから転載しました)
【日本よ】
石原慎太郎 原発に関するセンチメントの愚
2012年2月6日 03:11 産経新聞(※転載)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120206/dst12020603120001-n1.htm
人間はさまざまな内的な衝動によって行動を起こす。内的な衝動には高尚な理念理想もあり、友情、忠誠、責任等々世俗な義理もあり、オウム真理教の信徒たちを駆り立てた信仰に根差した狂気まである。
これは他の動物たちにはあり得ぬことで、動物のとる行動は飢餓や恐怖、あるいは自衛の本能に駆られたもので人間のような理念を踏まえてのさまざまな行動などはありえない。しかしそれをもって人間の動物としての優位を誇る訳にはいきそうもない。
人間の理念理想なるものが価値あるものとして許容される範囲には当然限りがある。オウム信者の狂気は社会的には理念としてとても許容され得ないし、キリスト教での魔女狩りなども同断だろう。それらが表出しての行為は理性をはみだし奇矯で独善排他的で時には有害でもある。しかしなお当事者たちはそれがある種の理念に依(よ)るものゆえに、理の通ったものと確信してやまない。この種の逸脱は大小こと欠かないが、それが淘汰されない訳は、それらの逸脱が人間だけに共通な情念(センチメント)に依るものだからに他ならない。
そしてこのセンチメントほど実は厄介なものはない。それは理性をも超えて優に人間を左右してしまう。その最たる現象は恋愛で、一旦誰かに強く惚れてしまうとある場合には見境がつかなくなる。あんな相手と一緒になったら酷い目にあうぞとはたがいくら忠告しても、ある場合には聞く耳持たずに突き進み人生の破綻をも招いてしまう。
この世で恋愛は茶飯のことだから周囲はそれを常識の枠で捉え眺めて過ごそうとするが、ある人間にとってはそのセンチメントは枠からはみだして当人自身にも抑制がきかなくなってくる。以前九州で起こった殺人事件は男が恋人当人ではなしに、その祖母と母親を殺してしまう異常なものだったが、男のしつこいストーカー行為を取り締まるよう再三依頼された警察の不手際で発生したと指弾されていたが、ことがそうした軽犯罪を取り締まる生活安全課から刑事課に移されたことが引き金になり悲劇の到来となった節がある。刑事の専門家からすれば市井のたかが恋愛沙汰にいちいちかまっていられるか、他に深刻な犯罪容疑や未解決の事件もあるのに、ということで捜査の優先順位はむしろ前の担当部門よりも低いものにならざるを得なかったに違いない。そのことで警察を非難するのは容易だが、警察というあくまで常識を基準に職務を遂行する立場からすれば、恋愛に破れて罪を犯す者の衝動のセンチメントについてまで計量するのは埒外(らちがい)のことに違いない。
長々した前節を構えて私がいいたいことは、福島の原発事故以来かまびすしい原発廃止論の論拠なるものの多くの部分が放射線への恐怖というセンチメントに発していることの危うさだ。恐怖は何よりも強いセンチメントだろうが、しかしそれに駆られて文明を支える要因の原発を否定してしまうのは軽率を超えて危険な話だ。軽量の放射能に長期に晒(さら)される経験は人類にとって未曽有のものだけに、かつての原爆被爆のトラウマを背負って倍加される恐怖は頷けるが、しかしこうした際にこそ人間として備えた理性でものごとを判断する必要があろうに。理性的判断とはものごとを複合的に捉えてということだ。
ある期間を想定しその間我々がいかなる生活水準を求めるのか、それを保証するエネルギーを複合的にいかに担保するのかを斟酌計量もせずに、平和の内での豊穣な生活を求めながら、かつての原爆体験を背に原子力そのものを否定することがさながらある種の理念を実現するようなセンチメンタルな錯覚は結果として己の首を絞めることにもなりかねない。
人間の進化進歩は他の動物は及ばない人間のみによるさまざまな技術の開発改良によってもたらされた。その過程で失敗もありその超克があった。それは文明の原理で原子力もそれを証すものだ。そもそも太陽系宇宙にあっては地球を含む生命体は太陽の与える放射線によっても育まれてきたのだ。それを人為的に活用する術を人間は編み出してきた。その成果を一度の事故で否定し放棄していいのか、そうした行為は「人間が進歩することによって文明を築いてきたという近代の考え方を否定するものだ。人間が猿に戻ると言うこと-」と吉本隆明氏も指摘している。 人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのは、一見理念的なことに見えるが実はひ弱なセンチメントに駆られた野蛮な行為でしかありはしない。
日本と並んで原子力の活用で他に抜きんじているフランスと比べれば、世界最大の火山脈の上にあるというどの国に比べてももろく危険な日本の国土の地勢学的条件を斟酌せずにことを進めてきた原発当事者たちの杜撰(ずさん)さこそが欠陥であって、それをもって原子力そのものを否定してしまうのは無知に近い野蛮なものでしかありはしない。
豊かな生活を支えるエネルギー量に関する確たる計量も代案もなしに、人知の所産を頭から否定してかかる姿勢は社会全体にとって危険なものでしかない。
(※Webから転載しました)
原発事故と、その事故がもたらした「結果」については、国策と東電、その直接推進当事者の「身勝手な論理」の責任を真っ先に問うべきです。真の当事者責任や、その推進者側の重罪を不問にするわけにはいきません。
事故の直接当事者がその責任を明らかにし、謝罪し、誤りを悔い改めて、そのあとに、事故対応策を提起し、国民に対して、協力、参加を求めるべきです。事者の責任の所在をあいまいにしたまま、事故を許した当事者、だまされた側、無関心であった側の責任を並列しただけで、ことを終らせてしまっては、第2次大戦の「1億総懺悔」になることは必定です。愚かな歴史を二度くり返すことになります。あの「戦後主体性論争」(翼賛体制を支えた付和雷同、自分という主体性がなかった、200本以上の論文が発表)は、そのような戦後責任論の不毛な「負の遺産」ともいえます。
いま市政のレベルにおいて問われことは何でしょうか。
自治体、議会、市民も、その事故がおきた結果責任を自覚することは、重要な意味をもちます。その意味を込めて、廃原発への決意を表明し、決断し、実行することです。
このような思考、論理、政治の回路を経てはじめて、困難な現状にどう対処していくかという課題への取り組みもはじまります。
ガレキ拒否を、地域エゴ、身勝手と断罪することは、的はずれです。
原発事故の本質的な意味や罪科を問うことをしないセンチメントな批判です。
東日本1都12県5000万人が被曝した「広域原発災害」から、まず、第1に守るべきことは、若い命です。県・市・町・村境を問いません。それは決して、地域的なエゴや身勝手から派生するものでもありません。
あらゆる若い命を守ることは、大人の義務であり、責任であり、類的営為です。
「地域エゴ」「身勝手」と批判することは、己の論理の中にエゴイズムが潜んでいることの、投影ではないでしょうか。拡散防止、追加被曝阻止はエゴイズムやセンチメントのレベルをはるかに超えた喫緊の課題です。
自己犠牲でも、献身でもないし、寛大や、勇気、頑張り、絆という精神論(古くは大和魂)を対置して済む話しではないでしょう。事態は、きわめて現実的です。これ以上の追加被曝、拡散を許すことは、何としても避けなければいけません。
不確実な「焼却」はしないこと! 放射能は、これを閉じ込め、防護・管理することが鉄則です。2次被爆、3次被曝という「未知の愚」は避けるべきです。
「モルモット」代わりの生贄は、断じて許せません。
化学反応を起こして「こびりついたセシウム」を除染しても、「除染ごっこ」に過ぎないことは、すでに、チェルノブイリにおいて経験済です。「除染」なるものは、点、線の除染に過ぎません。面、立体、空間の除染は、膨大な費用なしには不可能でしょう。「世界の原子力ムラ」の頂点に位置するIAEA(国際原子力機構)さえも指摘しています。「リスク排除のために膨大なコストをつぎ込む過剰除染は行なうべきではない」。山林の汚染は、人の生活空間を介して、川や海につながっており、ある種の歳月の経過は避けられません。人智は、大自然の営みのまえには、無力なのです。
福島県の山林面積は「71%」(全国平均68%)です。山林の表土5cm(500年間の腐葉土分)をはぎ取るには、1日、10数名、300m2(30m×10m)、172袋という試削結果(日本原子力研究開発機構)でした。さらに、20%を占める耕地も肥沃な表土を除染対象にすることになります。水は命の源です。その水との親和性が強く、水に溶けやすいセシウムは水分とともに、山林、原野、環境に満ちあふれています。アルカリ性の強いセシウムは「珪酸」「塩」と化合して塩化セシウムになり、生活環境に「固着」します。
廃土・廃材の量も膨大です。焼却処分は重大な大気汚染源になることが懸念されています。それを否定する明確な根拠は示されていません。列島拡散にもつながるかも知れないし、すべては、未知の領域です。未知に加えて、すべて非公開で決められた数値を信じるわけにはいきません。3/1「毎日」全ページ井野博満さんインタビュー記事(是非ご一読)でも分るように、審議会の実態を議事録なし(非公開)とするには、問題がありすぎます。市民にとって信頼度ゼロは当然です。実証的に、コトをすすめるべきです。
なによりも、ガレキを移動させるまえに、人を移動させ、これ以上の累積被曝を防ぐことではないでしょうか。危険なガレキ移動、安易な焼却は、汚染物質の集積、拡散への第1歩です。このような無謀は、未来の命を危険にさらすことになります。襲いかかる最悪の危険を最大限予測し、幼い命を守る努力をしない限り、大人は子供の命に対して取り返しがつかない背理を演じることになります。
汚染ガレキ対策、ゴミ対策は、拙速を避けるべきです。広域焼却処理は、万全の手順、手段、技術、合意を経て行なうべき、最後的選択です。
町田市は、ガレキ受け入れのまえに、人的避難、家族避難、生活支援を受け入れるべきです。全国に先がけて、賢明な範を示すべきではないでしょうか。
越前高田市ボランティア曰く。「高台が生活地であり、低地にあるガレキは復興の妨げにはなっていない。低地の市街地は広大な公園にする予定であり、空間は有り余っている」とのこと。別な記事。「ガレキ復興足かせ」疑問(東京2/15)